奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評【酒井信】
■文学とは何だろうか
文学とは何だろうか。「一番原初的な、自由になるための、解放されるための闘いだ」(第一章「フォードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」)と『福田和也コレクション1〜3』の巻頭を飾る文章で、福田は回答している。レナード・コーエンの名曲を意訳しながら、多くの人間は「罠にかかった小鳥のように」本来もっと自由であり得るはずの人生に囚われ、「釣り針に掛けられたミミズのように」自由を求めてもがき、「死産の赤子」と大差のない生を全うしているのだ、と語る。人間を捕縛する「救いのない永劫回帰」から脱出するために、文芸批評を含む文学が、人が自由を志向する人であるための存在理由を与えると私も思う。この文章を含む『ろくでなしの歌』の単行本が発売されたのは、2000年の4月1日で、私が慶應義塾大学湘南キャンパスの大学院に入学した日であった。
『ろくでなしの歌』が出版された頃、私は福田が当時住んでいた馬込文士村近くの家で書庫整理のアルバイトに声をかけてもらった。三島由紀夫の旧宅の近くの桜が咲いていた記憶があるので、今思えば入学祝いだったのだと思う。福田の自宅のインターホンを緊張して押したことを今でも記憶している。敷居をまたいでみると、アルバイトと言えるほどの作業はなく、奥様に振舞って頂いた美味しいつまみを肴に、昼間から酒を飲み、「新しい世界=邪宗門」に足を踏み入れたことを実感した。『ろくでなしの歌』はこの日の帰り際に玄関先で貰ったのだが、今から振り返れば「お前は、このろくでなし=福田和也に学ぶんだからな」という、大学教員らしからぬ挨拶だったのだと思う。豪放磊落に見えて、福田は時折、繊細に企図された見栄っ張りな配慮を見せることがある。
出版物の売り上げは90年代半ばに史上最高を記録し、まだこの時期は本や雑誌が売れていて、批評にも勢いが感じられた。インターネットの通信速度もまだ遅く、書籍や雑誌を購読する人も多かったので、「本を読むのは、人生を作ること」という福田和也の言葉にも説得力があったと思う。福田和也が「新潮」誌上で柄谷行人に食って掛かったことも相応に話題になる時代で、本書に収録されている通り、福田は柄谷の批評の「否定しがたい生彩と加速感」を認めつつも「読者の前で思考を上演して見せる批評文のスタイルそのものが、細心の読者サービスに貫かれている」と批判することで、文壇に殴り込みをかけた(第四章「柄谷行人氏と日本の批評」)。まだ批評家の論争が「事件」や「商品」になり得た時代で、「批評は、直接に何と問い糺す事の出来ない「奇怪な想ひでゐたゝまれない氣持ち」の中にこそある」という福田の任侠映画のような批評観も新鮮に見えた。